驚異のボリューム『イスラム帝国夜話』タヌーヒー(森本公誠 訳)

おすすめ本

大学生のときに、アラビア語古典の授業でタヌーヒー(10世紀の法官)の『苦難のあとの救い』の説話をいくつか訳したが、古典独特の難しさから、わずか数行の意味を捉えるのに、いろんな辞書を引いて、予習に何時間もかかったものだった。

そんな自力では到底読み解くのが難しかったタヌーヒーが、日本語で、しかも上下巻1,000ページ以上で660もの説話が収録されている『イスラム帝国夜話』(森本公誠 訳)は、なんと素晴らしくありがたいことだろう。(なお、原題は「نشوار المحاضرة وأخبار المذاكرة」である)

今回はタヌーヒー『イスラム帝国夜話』(森本公誠 訳)の読書記録を書いていく。

アラビア語古典の思い出

大学のアラビア語の古典の授業では、『歌の書』で有名なアブー=ファラジュ=イスファハーニーの『歌姫(al-Qiyan)』も読んだが、その中で一つ「マンハラ」という歌姫に関する話が印象的だったので覚えている。

なお、ここでいう歌姫とは、宴会の場などで歌を披露する女性の奴隷のことである。単なる召使や愛人ではなく、詩昨、音楽、舞踏などの教養を持っており、文化的にも重要な役割を担っていた。

ある部族には女奴隷の歌姫「マンハラ」がいたが、歌声も風貌も大変美しかった。部族の若者であるアリーは彼女のことが好きで、彼女に関する詩をたくさん作った。しかし、ある日彼女は別の部族のもとへ売られてしまう。それを聞いたアリーは悲しみのあまり、なんと3日後に死んでしまう。そしてさらに驚くべきことに、アリーの死を知った歌姫マンハラも死んでしまうのである。

「命を絶つほどまでに恋焦がれる男女の悲恋の話」があまりにも衝撃的過ぎて、今でも印象に残っている。

アリーがマンハラに向けて詠んだ詩は次の通りだ。

يا نصب عيني لا أرى حيث التفت سواك شيا

إني لميت إن هجرت و إن وصلت رجعت حيا

ああ、どこを見ようと、私の目の前にはあなた以外見えない

あなたが去れば私は死ぬし、あなたが戻れば私の命は吹き返す

恋焦がれる気持ちが表されていて素敵な詩だと思う。ちなみにアラブ詩の韻律16種類あるうちの、これはカーミルである。(当時のメモによると)

『イスラム帝国夜話』の歌姫

タヌーヒー『イスラム帝国夜話』でも歌姫の話が何度も出てくる。歌姫を購入して学費が払えなくなった貧乏学生や、歌姫への花代で破産してしまう人の話などだ。また有名な歌姫として「往年の名歌姫アリーブ」や、アリーブの女奴隷の歌姫である絶世の美女「歌姫ビドア」の名前が何度かいろんな逸話に見られる。

・「お堅い法官でさえ青春はあった」(第一巻 38話)
女嫌いで有名な法官アブー=ハージィムもかつては、歌姫ビドアにぞっこんだったという意外な一面があったという話。

・「浪費癖から立ち直った遺産相続人」(第一巻 93話)
両親から莫大な遺産を受け継いだ相続人が、その大半の財産を歌姫に注ぎ込んで破産してしまうが、今度は従弟からの遺産によって身を立てなおすという話。

・「歌姫買いは人生勉強の授業料」(第一巻 96話)
息子が父親のお金を勝手に歌姫へ注ぎ込んでしまい、父親に「もしこの経験から学べたなら高い授業料だと思うが、学べなかったのなら、そんな息子をもったことは大金を失うより痛い」と言われる話。

・「市井の人でもかつての遊びは桁外れ」(第一巻 107話)
バスラの競売人が、絶世の美女である歌姫ビドアへ差し入れとして持っていくものは、ただのお菓子の詰め合わせではなく、なんと黄金のアーモンド、銀の砂糖、龍涎香のピスタチオ、伽羅の葡萄であるという話。

・「恋はお高くつきますよ」(第一巻 145話)
イブン=アルムッダビル(アブー=イスハーク)は、元カリフ-マームーンの女奴隷だった歌姫アリーブを深愛していて、彼女が引退してからも、彼女への愛の詩を詠んだ。アリーブはその詩に素晴らしい曲をつけ、彼女の女奴隷である歌姫ビドアに歌わせた。彼はお礼としてアリーブに金1,000ディナールを与えたが、アリーブのお願いにより、加えて金1,000ディナール相当の土地をも与えることになったという話。

・「歌姫に入れあげた部下への宰相の粋な計らい」(第二巻 28話)
ある書記官が歌姫サフラーと夜遊びをして、次の日の出仕に遅れたため、宰相に「サフラー(黄胆汁)が私の体を動き回り、遅れてしまいました」と手紙を書いたところ、宰相は「お前がサフラー(歌姫)に心を動かされたのだろう」と返事を書いたという話。

・「女性歌手の歌声にほれ込んだ老伝承家」(第二巻 180話)
伝承家アブルカースィムは、年齢が100歳でありながらも、わざわざ歌姫ハーティフの独唱会に足を運んだという話。

このように歌姫に関する逸話はたくさんあるのだが、中でも大作なのが「恋仲になった男と歌姫の波乱万丈」(第五巻 139話)である。バグダードのある男は、恋した歌姫を身請けしたが、その歌姫に財産を使い続け、破産してしまい、とうとうその歌姫を売ることになってしまう。男は悲しみに明け暮れていたが、偶然にもバスラ行きの船上で再開する。奴隷の主人からも、歌姫との結婚を許してもらうのだが、休憩のために船が寄港した場所で男が酔っぱらって昼寝をしてしまったことにより(!!)、2人は再び離れ離れになってしまう。その後、1年が経過し、男は他の女と結婚するのだが(!!)、なんと2人はまた再開したことにより、男は妻と離婚し(!!)、歌姫と結婚するという話である。まさに波乱万丈である。(脚注によるとこの話は、タヌーヒーを引用したサッラージュ『命がけの恋』からの採録であるかつ、タヌーヒーの『苦難のあとの救い』にも採録されているようだ。)

ところで、名前がよくでてきた「歌姫ビドア」についてだが、確認してみたら先に述べたアブー=ファラジュ=イスファハーニーの『歌姫(al-Qiyan)』でも「アリーブ=アルマアムーニーヤ」と「アリーブの女奴隷、大ビドア」という話もあるようだったので、そちらもぜひ読んでみたい、、、。

『イスラム帝国夜話』の奇妙な逸話

『イスラム帝国夜話』には、歌姫の話に限らず、面白い説話や逸話が盛りだくさんだが、中でも「なんだこれは!?」と思うような珍奇な話もある。

・「機転で窮地を脱する」(第一巻 46話)
女衒と疑われた男が、急にズボンをおろし「この一物が女衒に見えますかい?」との一言で、笑いをとって疑いを晴らす話。

・「一風変わったライオンの捕獲法」(第一巻 118話)
全裸の男がライオンの睾丸をつかみ、ペルシャパイプをライオンの尻の穴に突っ込み、そのままライオンを水の中に突っ込み溺れさせて、捕獲するという話。

・「ハムダーン朝アブルハイジャーのたくましさ」(第三巻 50話)
女奴隷と戯れているアブルハイジャーが、急に襲いに来たライオンを全裸で捕え殺したが、その間、一物を立たせたままであったという話。

・「仮死状態の硬直人間を蘇生させる」(第三巻 106話)
死んだと思われた若者を鞭で30回打つことで蘇らせた話。

・「手荒なショック療法」(第七巻 155話)
背伸びをしたら両手が下がらなくなってしまった女奴隷を、医者が女奴隷の”恐怖心”を利用して治療しする話。

・「墓の盗掘に快感を覚えてしまった良家の子女」(第三巻 152-153話)
夜な夜な墓を盗掘することが趣味になってしまった少女の話。

というふうに、まさに奇妙で衝撃的な話も多く収録されているのだが、そんな中でも激ヤバな衝撃の問題作が「なんと罪深き女よ」(第五巻 57話)である。墓場の死人たちが、どうかその女は別のところへ埋葬してくれと神に懇願するほど罪深き女であり、その女が犯した罪は、酒を飲んだり、音楽を聴いたり、女遊びをしたりといったことなんかではない。度重なる不倫に加え、近親相姦に加え、、、。(ぜひ覚悟してこの逸話を読んでみてほしい)この話を聞いたその女の息子はこう叫んだ「もうたくさんだ、たくさんだ。やめよ。もう何も話すな。あの女めに神が呪いを掛けられ、決してお赦しになりませんように。」(なお、脚注によるとこの逸話はイブン=アルジャズウィー『愛の悪徳』からの採録とのことだ)

『イスラム帝国夜話』とアラビアンナイト

奇想天外な説話・逸話が繰り広げられることから、アラビアンナイトを連想するが、下記の橋爪(2018)の書評を読んでしったのだが、「宮廷女官と反物商の恋」(第四巻 88話)はまさにアラビアンナイトにも同じ話があるようだ。

橋爪 烈 (2018)「書評 森本公誠(翻訳)タヌーヒー『イスラム帝国夜話』上下巻」

カリフ-ムクタディルの女奴隷から気に入られた反物商人の若者は、カリフからも結婚を許され、何もかもがうまくいっている状態であったのだが、いざ花嫁である女奴隷と口づけを使用としたタイミングで、あまりにもあごひげが臭いことから、花嫁から拒絶されてしまう。その悪臭の原因は、直前に食べたディクバリーケという料理だった。男は「今後ディクバリーケを食べた後は40回手を洗う」と誓うことで、なんとか許してもらうことができた、という話である。

ちなみに、上で紹介した書評によると、この「ディクバリーケ(Dikbarike)」という料理は、『苦難のあとの救い』や『アラビアンナイト』では「ジールバージャ(Zirbaja)」という料理名になっているようだ。(なお、『イスラム帝国夜話』の脚注ではディクバリーケは、肉、豆、酢、駱駝の乳からなる料理と記載されている)

このように、タヌーヒーの逸話とアラビアンナイトを読み比べてみるのも面白いかもしれない。

おわりに

他にも「棗椰子酒を合法とする根拠」や「叛乱者の望んだままの極刑を」など、面白い話はたくさんあるのだが、ほんとに興味深い話ばかりなので挙げればきりがない。

その他メモしておきたいのは、『イスラム帝国夜話』の特徴としては、神秘主義(スーフィズム)や神秘家ハッラージュに関する逸話も出てくるが、法官タヌーヒーが体制擁護派であることもあり、神秘家はまやかしである(第一巻 82話)とか乱交をしている(第三巻 148話)とかそういった批判的な逸話が多いということがある。その点には考慮が必要と訳者もあとがきや第一巻 82話の脚注で示している。

あと、各巻の序文で出てくるタヌーヒーの「私は、私が蒐集し苦労して書き、校訂し、作文したものが、散逸したり消滅したりしないように望む。本書にはこれといって得るところがないとしても、白紙よりもましであろうし、そうなればなんらかの有益さがあるものである」という謙遜しすぎているこのフレーズも気に入ったこともメモしておきたい。日本語で読めることに大変感謝して、タヌーヒーが望んだようにこれらの逸話が消滅しないように、読み継いでいきたいものである。

وأرجو أن لا يبور ما جمعته، ولا يضيع ما تبعت فيه وكتبته، وأثبته من ذلك وصنعته، فلو لم يكن فيه، إلا أنه خير من أن يكون موضعه بياضا، لكانت فائدة إن شاء الله تعالى

”私は、私が蒐集し苦労して書き、校訂し、作文したものが、散逸したり消滅したりしないように望む。本書にはこれといって得るところがないとしても、白紙よりもましであろうし、そうなればなんらかの有益さがあるものである”

タヌーヒー『イスラム帝国夜話』(森本公誠 訳)、第一巻 序文

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