【フランス暴動に思うこと】カミュ『異邦人』と『もう一つの異邦人』を想起する

時事ネタ

USCPAに関する記事ばかり書いていたけど、急に時事ネタについて話し始めるという「資格・転職ブログ」から「雑記ブログ」への方向転換。いや時事ネタもビジネスにはつきもの、よって「ビジネスブログ」への転換か。(「雑記」というほど幅は広くはないし。ただ、この記事、入りは時事ネタやけど、中身は文学ネタ。それならやっぱり雑記か。迷走中、というよりとにかく何かをアウトプットして、なんとかブログを継続させたいと奮闘中。)

日本はすっかりコロナも明けたような雰囲気で、そろそろ海外旅行にいきたいな、特にフランスに行きたいなあって思ってたところに、「フランスで大暴動」のニュース。

フランス、暴動と略奪やまず 10代の移民層の「反乱」 社会の分断浮き彫り(産経新聞) - Yahoo!ニュース
【パリ=三井美奈】フランスで、警官が27日の検問中に17歳の少年を射殺した事件を機に始まった暴動は1日夜も続き、放火や略奪が広がった。暴徒の多くはアフリカ系移民出身の10代の若者。経済格差や差別への

きっかけはアルジェリア移民2世が警察官によって射殺されたこと。これが「移民に対する人種差別」やいうことで移民地区を中心に暴動が起きている。

このニュースに関する事実関係を詳細に追えているわけではないけれど、ここからふと想起したのはカミュの『異邦人』。ご存じ「今日ママンが死んだ」という有名な一文から始まるフランス文学で、フランスによる植民統治中のアルジェリアが舞台。主人公ムルソーはフランス人で、ママン(お母さん)がなくなった直後も奔放に日常を送り、「太陽がまぶしかったから」といった理由でアルジェリア人を射殺して、死刑を宣告される、、、というお話。

フランス人によるアルジェリア人の射殺。『異邦人』の中では亡くなったアルジェリア人の名前さえ述べられず、家族構成などにも一切触れられない。あくまで物語はフランス人の主人公ムルソーを中心に記述がなされていく。

この点に関して、エドワード・サイードは「支配者側からの一方的で自己中心的な植民地主義の言説」ということでカミュを批判。さらには、そもそも植民地時代に、アルジェリア人を射殺したところでフランス人が死刑になるわけがない。いくら小説とはいえ、こんなカミュが作り出した虚構を、いつまでもすごい小説みたいな感じで神格化するのはやめようと主張。

『異邦人』は1942年の小説の話だけど、今日のアルジェリア移民の射殺もフランス人によるアルジェリア人への差別的な行為が表面化したものだと捉えられて、その結果としての暴動ということだろう。さすがに現代では射殺された側の名前さえ気にされないということは全くなく、移民を中心に大反発が発生するいう事態。

米国のBLM運動の時もそうだったけど、一つの事件をきっかけに、「差別された側」を中心に大暴動がおこるというパターンが近年多くなってきている感じがする。そういった声をあげることは大切なのはもちろんやけど、ここぞとばかりにかなり暴力的な反発として表れてしまっているように感じる。そこは気になる点ではある。

さて、話は文学の話に戻るけど『異邦人』に対しての反発ということろでいうと、数年前に日本でも翻訳された『もう一つの『異邦人』 ムルソー再捜査』を思い出す。

これはアルジェリア人のカメル・ダウードが書いた小説で、なんとカミュ『異邦人』で殺されたアルジェリア人の「弟」の視点から『異邦人』を再解釈するという構造になっている。

『異邦人』では名前さえ与えられなかったアルジェリア人に名前を与え、気にも留められなかった家族構成を明らかにして、射殺されたアルジェリア人の「弟」の視点から、その射殺事件前後を描いていく。この設定がすごい斬新で、文学には文学で対抗していくというのがまた良い

70年の時を経て、「支配される側、差別される側」からの反発。そして何も気に留めずにカミュを神格化する「読み手」への問題提起。

今日のフランスの大暴動の背景を読み解くために、今ぜひ『異邦人』を読み返し、そして合わせて『もう一つの異邦人』もセットで読みたい。

叢書《エル・アトラス》 もうひとつの『異邦人』―ムルソー再捜査
カミュの『異邦人』を反転させ、ムルソーによって殺害されたアラブ人の弟が紡ぐ“もうひとつの物語”とはなにか!?世界でもっとも読まれたフランス小説を、アラブ人の視点から創造=想像的に捉え返す衝撃作。

(追記)実はこの本の表紙、ローマ字の表記がアラビア語っぽいローマ字になってて、デザインにとてもこだわりがあることがよくわかる。非常によい。このフォントほしい。

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